E.JOURNAL
「E.JOURNAL」はメンバーが「いま気になる人」に“学び”をテーマに取材していく、EXD.Groupオリジナルコンテンツです。4回目のゲストは世界に日本の寿司文化を広める伝道師、寿司サムライこと小川洋利さんです。
挫折をきっかけに渡ったオーストラリアで
運命の職業に出会う
世界で大ブームを巻き起こしている日本食。特に最近では、熟練の伝統技術に基づいた、より質の高い本格的な日本食が求められています。そういった国際的な需要の高まりの中、長きに渡り寿司文化の伝道と発展に心血を注いできた寿司職人、小川洋利さん。“寿司サムライ”として、50以上の国で寿司と和食の技術を伝えてきた小川さんは、如何にして世界の舞台へと飛び出したのでしょうか。
「私は小学生の頃から剣道一筋で育ってきたのですが、高校2年生の時に椎間板ヘルニアで思うように動けなくなり選手からも外されまして・・・・・・。大きな挫折をしてしまい一気に無気力になってしまったのです。そんな時にちょうどワーキングホリデーという制度を知り、高校卒業と同時に、現実逃避をするようにオーストラリアへ渡りました。そうしたらもう、とんでもないカルチャーショックで。それまで学生時代は部活動一筋の人間だったので、とにかく暮らしのすべてが刺激的で楽しくて、すっかりオーストラリアにハマってしまいました」。
衝撃のオーストラリア暮らしの中、偶然に見つけた働き口が小川さんの未来を大きく左右することに。そこはドイツ人が経営する日本料理店だったそう。
「当時18歳と若く英語もできないし、ありとあらゆる面接に落ちまくって、友達に紹介されたバイト先でした。とはいえ料理経験もゼロだったので、始めは皿洗いなどの雑用から、少しずつ包丁を使わせてもらうようなり、調理場にも立たせてもらえるようになって。気づいたらワーホリのリミットの1年が経とうとしていたのですが、その頃にはすっかり料理が好きになっていました」。
日本へ帰ると、当時一番有名だった調理師学校の「辻調理師専門学校」に入学。昼は学校、夜は料理屋バイト、土日、祭日は酒屋とテキ屋でもバイトという過酷な日々の中で、寿司職人になることを決意し、卒業後は寿司屋の住み込みで働き始める。当然、職人の世界は厳しいもの。幾つかの店舗での修業を経て、カウンターの中で握れるようになるまでに、実に約7年もの月日を費やしたそうです。
「そのあと、料理に目覚めたゆかりの地オーストラリアへ再び行きたいという思いがでてきました。やっぱり自分の中であの1年間が強すぎて。専門学校を卒業して寿司屋に入った頃から、実はずっと思っていたんです。いつかオーストラリアで働きたい、って」。
行動力で手に入れた海外での仕事の中で
日本での当たり前をアップデート
思い立ったら即行動の小川さん。まずは行かなければ始まらないと、観光ビザで渡豪します。
「当時まだ26〜27歳でしたからね。勢いもあったし、修行してきた自信もあったし。どうせだったらシドニーで1番の日本料理店で働きたいという思いで、全日空ホテルの日本料理店に飛び込みで突撃しました。するとたまたま当時の料理長と面接することができて、ビジネスビザを取っていただき働かせてもらえることになりました」。
あてもない挑戦にも関わらず、持ち前の行動力でシドニーでの仕事を手繰り寄せた小川さん。しかしそこでワーホリ時代には感じなかった、海外と日本の違いを改めて痛感したそう。
「1番は人種の違いですね。当時、全社員で約60カ国、料理人だけでも10カ国以上の人種が働いていたので、それはもう大変でした。宗教によって食べられないものがあったり、お祈りの時間があったり。文化も考え方も、何もかもバラバラだから、トラブルもしょっちゅう。それと向こうは労働者の権利という部分にも敏感でした。私がまだ入ったばかりの頃、スタッフといざこざがありまして。英語力も未熟だったので相手にとって失礼なスラングを発してしまったんです。そしたら、すぐに『訴えてやる!』みたいな騒ぎになってしまって。とにかく謝り倒して何とか和解はしましたが、言葉の言い回しやコミュニケーションの取り方など、私自身がアップデートしなければならない部分もたくさんありましたね。日本での当たり前は、世界では全然当たり前じゃないんだな、と痛感しました」
その後2002年に帰国すると、当時まだ邪道といわれていたサーモンや、カリフォルニアロールのような海外メニューも積極的に取り入れた、持ち帰り・配達専用店舗『小川寿司』をオープン。このコンセプトが当たり、間もなく2店舗目として江戸前立ち寿司店も開店し大人気のお店に。まさに順風満帆の職人生活を送る中、突如として小川さんは、そのすべてを手放してしまいます。
「正直ずっと黒字でしたし、利益もまぁまぁ出ていたのですが、うまく行き過ぎちゃったんですかね。年齢も若かったし、このまま一生終わって良いのか? みたいに思ってしまって。そんな時に起きたのが、東日本大震災。私のお店も被害がありつつも炊き出しなどをして災害を目のあたりにし、もっと自分にできることはないのか、世界に出たい、寿司で誰かの力になりたい、と考えるようになりました。その結果、お店を売却してしまいました」。
東日本大震災をきっかけに
料理を作るから、人を育てるへ
ある意味衝動的に店を手放してしまった小川さんですが、その歩みは止めません。まずはパソコンスキルを手に入れるためビジネススクールに通い始め、学びの一貫として、寿司作りをテーマにしたブログを設立。同時に自主制作で寿司作りの教則DVDを作り、さらには自らが講師として寿司メインの料理教室も立ち上げます。
「当時はまだ震災の影響もありましたし、とにかく自分の技術が誰かのためになれば、という思いでした。そういった活動の中で、ある時、現在の私の上司でもある風戸正義氏(国際すし知識認証協会代表理事)に声を掛けられました。『海外で寿司を広める仕事をしているから、手伝ってくれないか』と。そこからですね、私のいまの仕事が始まったのは」。
2012年。震災が起き、店を手放してから1年後のことでした。それから現在まで、小川さんは人々に寿司を広めることを人生の目標として、かれこれ50カ国以上でその技術を披露し、伝え続けています。
「初めの2年間くらいは、本当に利益ゼロ。というか足りない部分はすべて自分の持ち出しだったので、むしろマイナスでした。それから2014年に一般社団法人“国際すし知識認証協会”を設立。国からの依頼や食品関連会社様などにサポートしていただけるようになり、ようやく自腹を切らずに済むようになって、なんとかいまに繋がっています」。
寿司職人としての安定した生活を捨て、未開の寿司伝道師という道を選んだ小川さん。その行動原理と未来の展望とは?
「自分のお店でお客様に寿司を提供するという料理人人生が終わったいま、私の目標は、世界中でひとりでも多くの料理人を育てることです。そういった中で私が最も重きを置いているのが、まずはしっかりと伝統を伝えること。だけど実は、江戸前寿司の歴史だって200年くらいだし、軍艦寿司なんて100年も経ってないんですよ。それって例えば寿司の起源と言われる鮒寿司からしたら、伝統とは呼べないですよね。だから私は、いわゆる伝統の江戸前寿司も、カリフォルニアロールのように現地化した寿司も、同じ進化線上にある寿司として捉え、あくまでも『日本の江戸前寿司はこうですよ』と、伝えています。教えるんじゃありません。あくまで“伝える”。だって文化や習慣によって生魚を食べない方々は、確実にいるわけですから。そういった背景に合わせて進化したものを否定して、“これが伝統です”と言って押し付けるのは、私は違うと思うんですよね」。
努力は当然
必要なのは、覚悟
歴史や伝統を重んじる職人性と、背景の異なる人々の文化を尊重する多様性の共存。それはまさに、小川さんがこれまで歩んできた道のりの賜物。最後に、小川さんのようにグローバルで活躍するためには何が大事なのか、お伺いしました。
「やりたいこと、挑戦したいことがあったら、まずは行動に移すこと。そして自ら体験すること。これだけ情報があふれている社会ですから、当然、周囲の情報は参考にするべきだと思います。しかしながら、他人が言ったことを鵜吞みにしてはダメです。大切なのは、自らの足で地を踏みしめ、肌で感じる、それを実体験として得ることだと思います。それともうひとつ。これは精神的に1番大事なことで、覚悟を持つ=腹を決めること。努力努力とみなさん言いますが、大なり小なり、人は誰しも努力しているじゃないですか。だけど報われない人はたくさんいる。じゃあ何が足りないかって言うと、それが覚悟だと私は思います。結果がどうであろうが構わないという覚悟。誰にどう言われようが関係ないという覚悟。そういう覚悟を持って、何事も行動に移してほしいですね」。
“寿司サムライ”小川洋利さんの活躍の詳細は下記リンク先にてご確認ください。
https://www.instagram.com/hirotoshi.ogawa
■X
https://twitter.com/sushiskill
■YouTube
https://www.youtube.com/@sushisamurai3506
■著書
『寿司サムライが行く! トップ寿司職人が世界を回り歩いて見てきた』(キースステージ21)
『知って楽しいキャラ図鑑みんなの寿司ワールド』 (実務教育出版)
テキスト:山本サトシ 写真:平本泰淳